五代目豊島半七
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:55 UTC 版)
「豊島半七 (四代目)」の記事における「五代目豊島半七」の解説
四代目豊島半七の長男の昭太郎は生まれつき体が弱かったため、次男の恒二は鐘紡在社中の1957年(昭和32年)2月に豊島株式会社の非常勤監査役に就任。恒二は1959年(昭和34年)には鐘紡を退社して豊島株式会社に入社したが、翌年の1960年(昭和35年)には昭太郎が亡くなった。 1962年(昭和37年)に四代目豊島半七が亡くなると、恒二は32歳にして五代目豊島半七を襲名し、1963年(昭和38年)2月には豊島株式会社の社長に就任した。名古屋市中区錦の繊維問屋街である長者町繊維街では、先代の名前を後継者が襲名する習慣があったが、この頃には襲名を行っていたのは豊島家(豊島半七)のみだった。五代目豊島半七は本社を一宮市から名古屋市に移した。1980年(昭和55年)には一宮商工会議所の会頭となり、1988年(昭和63年)には豊島株式会社の会長となった。 2010年(平成22年)12月2日に五代目豊島半七が亡くなると、直後の12月15日には一宮市議会で一宮市名誉市民に推挙された。
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