二度目のディクタトルシップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/13 03:02 UTC 版)
「マメルクス・アエミリウス・マメルキヌス」の記事における「二度目のディクタトルシップ」の解説
フィデナエの戦い後ローマは疫病に苦しめられたが、紀元前435年には独裁官クィントゥス・セルウィリウス・プリスクスが坑道を利用してフィデナエを陥落させていた。これに恐れおののいたウェイイとファレリィの両都市は翌紀元前434年、エトルリア同盟に属する12都市に共闘を持ちかけ、これを脅威と見做した元老院は再度マメルキヌスを独裁官に任命し、彼は副官にアウルス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスを指名した。 激戦に備え戦争準備を進めていたローマではあったが、エトルリア同盟は共闘を拒絶した事が明らかになり戦争は回避された。そのため、マメルキヌスは独裁官としての業績を欲して、ケンソルの任期削減を思いついたという。人々の自由を守るためとしたこの法案は市民の圧倒的支持を得て成立し、それと同時にマメルキヌスは独裁官を辞任した。ケンソルの任期はこれによって5年から1年半に短縮されたが、彼らの恨みは深く、マメルキヌスは公民権を剥奪され重税を課される事になったという。
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