亀倉雄策との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 01:46 UTC 版)
「クリエイションギャラリーG8」の記事における「亀倉雄策との関係」の解説
リクルートの創業者である江副浩正と亀倉雄策の交流は深く、情報誌の表紙を依頼したことをきっかけに1968年にリクルートの旧社章を亀倉が制作する以前から、江副はなにかにつけて亀倉に相談事をしにいく関係だったという。1986年にはリクルートの取締役に亀倉が就任し、1987年からはリクルートのイメージアップを目的としたB倍2連のポスターを亀倉が制作し、月1回のペースで掲出された。 1988年、リクルート事件の最中であったが亀倉は事務所をリクルートGINZA8ビルに移し、雑誌『クリエイション』の発行を宣言。翌年6月から、リクルートより刊行が開始された。改称後のギャラリー名は当初G8ギャラリーとなる筈であったが、亀倉の要望により誌名である「クリエイション」という語が付け足され、「クリエイションギャラリーG8」という名称に決定した。以後、ギャラリーでは『クリエイション』の内容と連携して全20回にわたるクリエイション紹介作家展シリーズ(1990年〜1997年)を開始する。 1992年に開始されたJAGDA新人賞展は、例年使っていた会場が使えなくなり開催が危ぶまれた際にギャラリーが当時JAGDAの会長であった亀倉に声をかけて以来、毎年開催されている。 1997年3月、亀倉が死去。1999年にはJAGDAが亀倉雄策賞を設置し、受賞者による受賞記念展がギャラリーで毎年開催されている。
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