中津山藩主時代から死去まで
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「伊達村和」の記事における「中津山藩主時代から死去まで」の解説
元禄8年(1695年)7月6日、兄・綱村から3万石を分知されて中津山藩主となり、村和と改名する。水沢伊達家の家督は甥・吉之助に譲り、水沢を離れて江戸に出府する。同年12月18日、従五位下・美作守に叙任される。 村和は、元禄9年(1696年)には徳川家綱の17回忌における公家接待役を務めるなどしたが、元禄12年(1699年)9月9日、江戸城へ登城する行列の前を横切った旗本・岡孝常に供回りの者が怪我を負わせたため(土器町事件)、9月26日には謹慎を命じられ、10月28日には兄・綱村の願いもあり、改易に追い込まれた。結局村和は一度も藩庁・中津山陣屋に入部することがなかった。 村和の身柄は兄・綱村に預けられることになり、宮城郡野村に逼塞を命じられ、毎年金200両・米2000石を支給された。逼塞処分は20年に及び、享保4年(1719年)12月18日、ようやく罪を許され、翌享保5年(1720年)9月24日には出家して定岳と号した。 享保7年(1722年)6月29日死去。享年62。同年9月、長男の村詮が一門の家格に列し、川崎要害を拝領して2000石を知行し、子孫は幕末まで同地を治めた(川崎伊達家)。
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