川崎伊達家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/01 07:59 UTC 版)
中津山藩の改易後、村和は宮城郡野村にて20年間の逼塞を余儀なくされ、赦免から3年後の享保7年(1722年)に死去する。同年、村和の長男の村詮が一門第九席に列し、柴田郡川崎要害を拝領して知行2千石を与えられ、以後幕末に至るまで同地を所領とした。これを川崎伊達家と称する。 最後の川崎領主である第7代当主・邦賢は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際に浜通りおよび笹谷口に派兵した。敗戦後、所領を失うと小学校の教員になったが、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると、子の基煕・煕信と共に旧家臣団を率いて西郷討伐のため従軍し、凱旋後は東京に住んで伊達伯爵家(本家)の剣術師範となった。
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