中央画壇での活躍とは? わかりやすく解説

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中央画壇での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:37 UTC 版)

長谷川等伯」の記事における「中央画壇での活躍」の解説

天正17年1589年)、利休施主として増築寄進され、後に利休切腹一因ともなる大徳寺山門天井画柱絵制作依頼され、同寺の塔頭三玄院水墨障壁画描き、有名絵師仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。天正18年1590年)、前田玄以山口宗永働きかけて、秀吉造営した仙洞御所対屋障壁画注文獲得しようとするが、これを知った狩野永徳狩野光信勧修寺晴豊申し出たことで取り消された。この対屋事件は、当時等伯永徳力関係明確に物語事例であるが、一方で長谷川派台頭予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心窺える。この1か月後に永徳急死すると、その危惧現実のものとなり、天正19年1591年)に秀吉嫡子鶴松菩提寺である祥雲寺(現智積院)の障壁画制作長谷川派引き受けることに成功した。この豪華絢爛金碧障壁画秀吉にも気に入られ知行200石を授けられ長谷川派狩野派と並ぶ存在となった。しかし、この年利休切腹し文禄2年1593年)には画才恵まれ跡継ぎ見込んでいた久蔵先立たれるという不幸に見舞われた。この不幸を乗り越えて文禄2年から4年1593年 - 1595年)頃に代表作である『松林図屏風』(東京国立博物館)が描かれた。

※この「中央画壇での活躍」の解説は、「長谷川等伯」の解説の一部です。
「中央画壇での活躍」を含む「長谷川等伯」の記事については、「長谷川等伯」の概要を参照ください。

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