中国の伯爵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:14 UTC 版)
「中国の爵位(中国語版)」も参照 殷の時代に姫昌が「西伯」に任じられているが、これは殷の西方の盟主・覇者を意味するとされている。 西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「伯」は五つある爵の上から三番目に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、伯は大夫が受けるものとしている。『礼記』・『孟子』とともに伯は七十里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。 漢代においては二十等爵制が敷かれ、「伯」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、伯の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる。食邑は大国なら千二百戸、六十里四方の土地、次国なら千戸、五十五里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋および東晋でも爵位は存続している。 南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。
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