下総・法華経寺と親交
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「日進 (身延3世)」の記事における「下総・法華経寺と親交」の解説
久遠寺3世就任の翌年、日進は下総の正中山法華経寺(当時は法華寺と本妙寺)3世日祐と親交を結んだ。論議に優れた日向の後継者・日進の学識の深さは当時第一だったとされ、日祐は日進を師のように敬い毎年のように身延山久遠寺を参詣したという。また法華経寺の諸堂造営の供養など、日進も下総中山へ招かれることが度々あったとされる。甲斐身延の久遠寺と下総中山の法華経寺は親交を図る事で互いに進展を遂げ、その交流は「伝灯抄」によれば、久遠寺7世日叡の代まで約60年間に渡って続いたとされる。 当時、下総の中山法華経寺は2つの寺だった。下総には日蓮を支援した有力な檀越として3人の武士、富木常忍、大田乗明、曾谷教信がいたが、弘安5年(1282年)日蓮没後、富木常忍が出家し日常と称し、千葉県市川市若宮の自邸にあった法華堂を法華寺(現・奥之院)とした。これが中山法華経寺の始まりである。2世は大田乗明の子・日高で千葉県市川市中山の父の館跡に本妙寺を創建して法華寺の貫主も兼ねた。以降2寺1貫主となり戦国時代末になって法華経寺と称した。日進と親交した3世日祐は17歳で法華寺と本妙寺の貫主に就任。日祐は豪族・千葉胤貞の養子で、義父から広大な寺領を寄進されるなど背景に絶大な政治力と経済力があった。
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