一面の湿地帯だった時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 07:13 UTC 版)
「翠 (広島市)」の記事における「一面の湿地帯だった時代」の解説
江戸初期、この地区は広島湾頭の遠浅の干潟に過ぎなかった。しかし1662年(寛文2年)から翌1663年にかけて比治山の南から仁保島(現在の黄金山)に至る仁保島西新開が造成されたことにより、近隣の皆実町・出汐・旭などとともに新たに開発された。仁保島西新開はのち「皆実新開」と改称され、明治維新後には皆実村、1889年(明治22年)の広島市制施行後は同市の(大字)皆実(1916年(大正5年)に「皆実町」と改称)に属することとなった。 当時、皆実新開の南端に位置するこの地はすぐ南に遠浅の広島湾を臨み、アシの生い茂る一面の湿地帯であった。1889年に完成した宇品築港事業により地区の南側に広大な新開地(現在の宇品地区)が造成されたのちも、こうした状況に大きな変化はなく、次第に蓮田や棉畑が広がりつつあったこの地区は新開地からの海水の浸水に悩まされていた。このため、1920年には地区の南限に海水を防ぐための堤防が竣工し「桜土手」と呼ばれるようになった(現在の広島県道86号翠町仁保線)。しかしこの工事によっても海水の浸入を完全に止めることはできず、東隣の丹那方面から入ってくる海水が桜土手北側の水路・湿地に流れ込む状況が戦後まで続いた。
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