ロマンの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:49 UTC 版)
「ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争」の記事における「ロマンの死」の解説
1205年6月19日、ロマンはZawichostの戦い(ru)で、クラクフ公レシェク、マゾフシェ公コンラトら率いるポーランド諸公軍に敗れ、戦死した。この時、ロマンの子ダニールは4歳、ヴァシリコは2歳であり、ロマンの妻・アンナ(ru)はサノクでハンガリー王アンドラーシュ2世と面会し、ハンガリー兵から編成されたガーリチ駐留軍の指揮権を得た。既に1204年12月30日の段階で、ロマンとハンガリー王アンドラーシュ2世との間には相互協定条約が結ばれており、その中には、仮にどちらかが死亡した場合、その遺児を支援する協定が含まれていた。なお、アンナをアンドラーシュ2世の姉妹とする説がある。 ロマンの死を知ったスモレンスク・ロスチスラフ家(ru)のリューリクはキエフ大公位に復位し、息子ロスチスラフ、チェルニゴフ・オレグ家(ru)、ポロヴェツ族のコチャンらによるガーリチ遠征軍を出撃させた。遠征軍はシレト川付近でガーリチ・ヴォルィーニ軍を破るが、ガーリチ近郊での戦闘ではガーリチ守備部隊に敗れ、撤退した。 1206年、スモレンスク・ロスチスラフ家、チェルニゴフ・オレグ家、ポロヴェツ族がチェルニゴフで諸公会議(チェルニゴフ諸公会議(ru))を行った。その詳細は記録されていないが、同年、これら諸公は再びガーリチへの遠征を行った。また、今回はクラクフ公レシェクも遠征軍に加わった。これに対し、ハンガリー王アンドラーシュ2世は戦闘を回避し、ロマンの妻子を連れてガーリチから撤退した。ガーリチのボヤーレ・コルミリチチ家のウラジスラフ(ru)により、チェルニゴフ・オレグ家系であり、ノヴゴロド・セヴェルスキー公国出身の3兄弟(父はノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリ、母はガーリチ・ロスチスラフ家のガーリチ公ヤロスラフの娘エフロシニヤ)が招聘された。3兄弟のうちウラジーミルがガーリチ公、スヴャトスラフ(ru)がヴォルィーニ公、ロマンがズヴェニゴロド公となり、ガーリチ・ヴォルィーニ公国は分割統治された。
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