リカルテの日本亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 07:10 UTC 版)
「フィリピン独立革命」の記事における「リカルテの日本亡命」の解説
フィリピン軍幹部でカティプナン以来の英雄であったアルテミオ・リカルテ将軍は、1900年米軍に捕らわれたのちも米国への服従を拒否し、このため彼は早々と屈服したアギナルド以上の国民的人気を得た。彼はあくまで独立革命の持続をめざし、いくどかの国外追放を経て1915年日本に亡命したが、対米関係を重視する日本政府からは厄介視され、ごく少額の援助を受けながら横浜での居住を許可された。この地で彼はスペイン語教師として細々とした生活を強いられ、1941年12月の太平洋戦争開始による日本軍のフィリピン進出とともに帰国を果たすまでの長い間いわば「飼い殺し」としての境遇に甘んじていた。しかしフィリピン本国では「日本軍をバックとしたリカルテの帰国」という風説が1910年頃まで広く流布し、1914年にはこの噂を信じた人々が武装蜂起する事件も起こっている。
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