ライレー・モーター・マニュファクチャリング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/26 03:54 UTC 版)
「ライレー」の記事における「ライレー・モーター・マニュファクチャリング」の解説
1913年の初頭、パーシーは3人の兄(ビクター、スタンレー、アラン)と共に、ライトカーよりも更に本格的な自動車製造に乗り出す。ライレー・モーター・マニュファクチャリング・カンパニー(Riley Motor Manufacturing )はパーシーのライレー・エンジン・カンパニーの近くに設立した。最初のモデルは「17/30」でロンドンモーターショーに出品されたが商業的には不成功であった。 次いで、スタンレー・ライレーがまた別の会社ネオ・エンジン・カンパニーを作り、彼自身の4気筒10hp(7.5kW)の自動車の生産をはじめる。ライレーは飛行機のエンジンも製造するようになり、第一次世界大戦ではすでに英国の主要な供給元となっていた。 戦争が終わったのちの1918年、ライレーの会社は再編される。ライレー・モーター・マニュファクチャリングはアラン・ライレーの下にミッドランド・モーター・ボディとなり、ライレーのボディ製造をおこなうコーチビルダーとなる。ライレー・エンジン・カンパニーは引き続きパーシーの元でエンジン・サプライヤーとして継続していた。 だが本業の自動車販売の面で適切なモデルを欠いていたことから、ライレー兄弟以外の技術者としてハリー・ラッシュが招聘され、量産向けで合理的な設計のニューモデル「イレブン」を開発。このモデルは堅実かつ丈夫な小型車でよく売れ、ライレーの経営を安定させることになった。 この頃、ライレーのエンブレムとして長く使われた『ブルー・ダイヤモンド』バッジがハリー・ラッシュにより作られている。当時の社是は『As old as the industry, as modern as the hour - 自動車業界の歴史とともに歩み、時間とともに歩む』
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