ヤマハの猛追
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 13:06 UTC 版)
1980年、年頭にヤマハは年間販売台数95万台という計画を提示。これはヤマハの本気を如実に示す数字であった。さらに6月、日本楽器から社長の河島が解任され、源一が再び社長職に返り咲いた。背景には経営方針の相違や、長男の川上浩への禅譲が遅れることを嫌った源一の意思が働いたなどとする憶測が飛び交ったが、旧本社である日本楽器においてホンダとの繋がりを持つ河島の退任は、覇権を狙う小池にとっては思う存分戦うに当たって障害のひとつが取り除かれたに等しかった。 ヤマハの追撃は止まることを知らず、1980年の販売台数は83万台と、ホンダの101万台との差を20万台以下まで縮める。1981年には掲げた100万台計画を11月には達成し、ホンダに迫った。1982年頭の挨拶で小池は「メドがついた。あと一息」と社員を鼓舞した。
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