ムーア城とは? わかりやすく解説

ムーア城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/29 15:23 UTC 版)

ムーア城
ジブラルタル
英国旗を掲げたムーア城のタワー・オブ・ハミッジ
ムーア城のタワー・オブ・ハミッジの位置
座標 北緯36度08分38秒 西経5度20分59秒 / 北緯36.143882度 西経5.349857度 / 36.143882; -5.349857
種類
地上高 約100メートル
施設情報
所有者 ジブラルタル自治政府
管理者 ムーア人: 711年-1309年
カスティーリャ王国: 1309年-1333年
ムーア人: 1333年-1462年
カスティーリャ王国: 1462年-1704年
ハプスブルク家: 1704年-1713年
グレートブリテン王国: 1713年-現在
一般公開
現況 一部破壊
歴史
建設 711年頃
使用期間 711年頃-1945年

ムーア城(ムーアじょう、: Moorish Castle)は、ジブラルタルにある中世の城砦。様々な建物、門、城壁からなり、最も特筆すべきなのがタワー・オブ・ハミッジ(敬意の塔)とゲート・ハウス(門楼)である。前者はジブラルタルを訪れた者ならば誰でもはっきり目にすることができるが、それは際立った佇まいもさる事ながら、その支配的・戦略的立地にもよるものである。近くのスペインのアルカサルとしばしば比較されるものの、ムーア城はマリーン朝が建てたという点でイベリア半島でも特異な存在である[1]

城の一部はかつてイギリスがジブラルタルの刑務所として使っていたが、これは2010年に移転した[2]

歴史

ムーア城のクィーン・シャーロット砲台

ネアンデルタール人の時代から古代人、ムーア人スペイン人、現在のイギリス人と、ここを訪れ征服した多くの人々と文明にとって、ジブラルタルは常に特別な重要性を持つ地だった。

ムーア人の支配は今のところ、記録に残るジブラルタルの歴史の中で最も長いものである。これは711年-1309年および1350年-1462年、合計710年にわたるものだった[3]

イスラム教徒キリスト教徒双方にとってのジブラルタルは、ムーア人のヨーロッパへの侵攻と支配が711年にこの地で始まったという点で重要なものとなっている。ジブラルタルは1462年にスペインに奪還され、ムーア人の支配は徐々に衰えてゆき、1492年にはグラナダが陥落し、ムーア人によるヨーロッパ支配は781年目にして終止符を打った。

ムーア人のスペイン侵攻は、ターリク・イブン=ズィヤードと Musa ibn Nasayr が率いたものだった。かくしてジブラルタルはスペインおよびフランスの一部に侵攻する際の足がかりとなった。この見事な軍事的成果は、たった22年で成し遂げられた。侵攻した距離、当時の地勢、未だ機械力が発明されていなかった点で、これは並外れたものである[4]。ジブラルタルの戦略的重要性は、ムーア人支配の末期に高まった。というのも、キリスト教徒側がグアダルキビール谷を手に入れて以降、グラナダ王国と北アフリカのムーア人領土の連絡において、ジブラルタルは重要地のひとつとなったからである。

ムーア城の建設は、8世紀(おそらく711年)に開始されたが、いつ完成したかについては記録にない。その城壁は、上はジブラルタルの岩(ザ・ロック)の上部、下は海に至るまで、かなりの面積を囲っている。最も目を惹くところといえば、まず高所にある塔、いわゆるタワー・オブ・ハミッジであり、その下には様々なテラスや銃眼付き胸壁がある。他に、丸屋根付きのがっしりしたゲート・ハウスがある[5]

タワー・オブ・ハミッジ

タワー・オブ・ハミッジは、イベリア半島でイスラム時代に建てられた塔の中では最も高いものであり、城のカスバ英語版はこの地域で最大である。この城はアラブ人によるイベリア半島攻略で重要な役割を果たした。アラブ人たちは2年で半島の大部分を征服し、のち7世紀にわたってヨーロッパの一角を占めることになる。それゆえこの城は、ジブラルタルとイベリア半島のみならず、ヨーロッパにとっても重要な遺産だといえる。

1309年から1333年の短期間スペインに支配された後、ムーア人が再度ジブラルタルを占領する際に城はほぼ破壊されてしまい、現在のタワー・オブ・ハミッジおよび現存する城の部分の殆どは、14世紀はじめの2度目のムーア人支配時代に再建されたものである[5]

現在

現在、ムーア城はジブラルタルを訪れる観光客に最も人気のある名所のひとつであり、1995年に発行され今も流通している5ジブラルタル・ポンド貨幣の裏面にも描かれている[6]

「Moorish Castle」あるいはスペイン語の「El Castillo」は、地元では「Moorish Castle Estate」がある城周辺の住宅地を指すこともある。

城の一部はかつてイギリスがジブラルタルの刑務所として使っていたが、これは2010年に移転した[2]

脚注

  1. ^ The Heritage of Gibralter: A Reply” (英語). CAM Bulletins. Commonwealth Association of Museums (1998年5月). 2012年9月10日閲覧。
  2. ^ a b Mascarenhas, Alice (2010年9月1日). “GATES CLOSE, ‘WINDY’ PRISON OPENS FOR BUSINESS”. The Gibraltar Chronicle. The Gibraltar Chronicle. 2010年9月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年9月1日閲覧。
  3. ^ Moorish Castle” (英語). Guide to the Castles of Europe. 2012年9月13日閲覧。
  4. ^ Information on the Moorish Castle Complex” (英語). Government of Gibraltar. 2007年2月13日閲覧。
  5. ^ a b Gibraltar Heritage Trust History of The Moorish Castle” (英語). 2007年2月13日閲覧。
  6. ^ World Paper Money - Image of the reverse of a 1995 £5 Gibraltar banknote (JPEG)” (英語). Will's Online World Paper Money Gallery. 2012年9月13日閲覧。

外部リンク


ムーア城

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ジブラルタルの岩」の記事における「ムーア城」の解説

詳細は「ムーア城」を参照 ムーア城は、710年間にわたりジブラルタル支配したムーア人遺物である。この遺物の主建築物は、タワー・オブ・ハミッジであり、これは煉瓦と、tapia と呼ばれる非常に硬いコンクリートからなるがっしりした建物である。塔の上部には、以前居住者たちの住居およびムーア浴場がある。 ムーア城は今もザ・ロックの別名として名を残すベルベル人首領ターリク・イブン・ズィヤード初めザ・ロック足を踏み入れた711年建てられた。17世紀トレムセン歴史家マッカリーによると、ターリク上陸の際、自らの船団焼き払ったという。

※この「ムーア城」の解説は、「ジブラルタルの岩」の解説の一部です。
「ムーア城」を含む「ジブラルタルの岩」の記事については、「ジブラルタルの岩」の概要を参照ください。

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