ミンティとフロイド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/18 09:00 UTC 版)
「リー・バウリー」の記事における「ミンティとフロイド」の解説
1993年にバウリーは、友人で元1980年代のニットウェア・デザイナーであるリチャード・トリー(Richard Torry)、ニコラ・ベートマンおよびマシュー・グラモア(Matthew Glammore)とともにバンド、ミンティ(Minty)を結成した。彼らのシングル『Useless Man』「Boot licking, tit tweaking useless man...」はダンス・ミュージック・グループ ザ・グリッド(The Grid)によってリミックスされ、『Plastic Bag』は、ねじ曲がったステージ上の彼らのスカトロジカルなパフォーマンスとともに映画『クレイジー・ナッツ 早く起きてよ』(I Woke Up Early The Day I Died)によって保存され、このために『ザ・サン』(The Sun)紙に彼らを「世界でいちばん病的なバンド」(the "sickest band in the world")と評させ、バウリーはそのことが誇りであった。このシングルは、オランダにおけるマイナー・チャート・ヒットになったが、ただし、友人らは、彼は、安っぽい見え透いた衝撃的恐怖の戦術に真の芸術的自己を失ったと感じ、その戦術のうち新しいものは無かった。 1944年に、リーはホックストン・スクエア(Hoxton Square)で『Fete worse than death』を上演した。バウリーとニコラ・ベートマン(のちの、ニコラ・バウリー(Nicola Bowery))は古典的な「出産ショー」("Birth Show")を上演したが、これはジョン・ウォーターズの『フィメール・トラブル』へのオマージュであるが、そこでバウリーはベートマンを「産み」("gave birth")、ベートマンは彼のコスチュームの下に特別にデザインされた馬具を用いてさかさまに支えられていた。バウリーは、ひとりでステージに登場することになるが、しかし歌のなかごろでパートナーを産み、パートナーは胎盤でおおわれたたいへん大きな赤子として現われた。このパフォーマンスは、レディー・バニー(Lady Bunny)のウィッグストック・イベントのために改訂され、そして映画『ウイッグストック』においてとらえられた。 1994年11月にミンティはロンドンのフリーダム・カフェ(Freedom Cafe)で、2週間にわたるショーを始め、その聴衆にはアレキサンダー・マックイーンもふくまれるが、しかしウエストミンスター市議会の手に負えず、市議会はわずか1夜ののちショーを終了させた。ミンティは財政的損失で、そして彼の多彩な生涯における最低の時をあらわした。オフェスト(Offest)というスピン=オフのバンドがのちに、アーティスト、ドナルド・アーカート(Donald Urquhart)をふくめて結成された。 バウリーは、ルシアン・フロイドの後期の肖像画のいくつかの裸の題材で、そして彼の展覧会の開会式のために国際的に旅行した。このモデル業は彼にいちじき、さまざまな適度な収入を彼に提供し、そして彼はたしかに、フロイドの英国体制との連結関係をゆっくりしみじみと味わった。
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