ポアンカレ予想への挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 15:40 UTC 版)
「クリストス・パパキリアコプロス」の記事における「ポアンカレ予想への挑戦」の解説
パパは米国に渡る以前から数学上の難問とされるポアンカレ予想の証明に情熱を注いでいた。前述のデーンの補題もその基盤となるものだった。自分の生活のほとんどをポアンカレ予想証明の研究に費やしており、IASからプリンストン大学へ移り、大学側から教授職、しかも週に1回の3時間の講習のみ、という条件での申し出を受けたときも、自らの研究に専念するために断っている。 同じトポロジスト(位相幾何学者)で、パパと同様ポアンカレ予想の証明を目指していたドイツ出身のヴォルフガング・ハーケンとはライバル同士のような関係だった。ある時、ハーケンがポアンカレ予想を証明したと発表したときには非常に動揺したという。結局その証明は数日後には誤りであったことが判明したが、この事件がもとでパパは精神的に不安定になってしまった。 1976年6月29日、ポアンカレ予想証明を実現できないまま胃癌によりプリンストンにて62歳で死去。ポアンカレ予想に翻弄された彼の人生は後に、アポストロス・ドキアディス (Apostolos Doxiadis) による『ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」』 (Uncle Petros and Goldbach's Conjecture) というベストセラー小説のモデルとなった(わずかながら本名で登場する)。
※この「ポアンカレ予想への挑戦」の解説は、「クリストス・パパキリアコプロス」の解説の一部です。
「ポアンカレ予想への挑戦」を含む「クリストス・パパキリアコプロス」の記事については、「クリストス・パパキリアコプロス」の概要を参照ください。
- ポアンカレ予想への挑戦のページへのリンク