ボアンヴィル家
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「チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル」の記事における「ボアンヴィル家」の解説
・家系については、同名の父親が高名な聖職者であったため、死去に際してエジンバラのトーマス・カンスタブル (Thomas Constable) は『チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル師の思い出(Memoirs of Rev. Charles Alfred Chastel de Boinville, 1877)』を編纂しており、それに詳しい。以下、要点を紹介する。 ・ボアンヴィル家はアンシャン・レジーム期にロレーヌ地方の貴族に列せられ、大きな農場を所有していた。高祖父ジョン・バブティストは、フランス革命を盟友のラファイエットと行動を共にし、マリー・アントワネットをパリまで護送したが、その後、イギリスに亡命した。イギリス人支援者の一人であるジョン・コリンズの妹ハリエットと恋に落ちて、フランスに残してきた妻子を捨ててグレトナ・グリーンで結婚式を挙げた。ジョン・パブティストは、ナポレオンが政権を握るとフランスに戻り、フランスに残してきた息子とナポレオン戦争に従軍し、ロシア遠征で亡くなった。 ・ジョン・バプティストとハリエットの間には一男一女の子供がおり、長男コリンズはイギリス人女性と結婚しチャールズとウィリアムの二人の息子をもうけた。長女コーネリア・ポーライン・ユージニア (Cornelia Pauline Eugenia) の方は母のハリエットとともにロンドンとパリで生活し、それぞれの文芸界で名を馳せた。1814年頃、パーシー・シェリーにフランス語やイタリア語を教え、親密な交流があった。 ・建築家ボアンヴィルの父とその弟ウィリアムは祖父の領地を再興しようとしたが、最終的にあきらめ、共に聖職者の道を歩んだ。兄チャールズはメソジスト教会牧師としてフランスで布教活動を行い、十数カ所に教会を新設した。弟のウィリアムはイギリス国教会牧師になった。
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