ペレヤースラウ条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 03:08 UTC 版)
「ボフダン・フメリニツキー」の記事における「ペレヤースラウ条約」の解説
詳細は「ペラヤースラウ会議 (1654年)」を参照 フメリニツキーはこうしてウクライナのポーランドからの自治を勝ち取ったものの、ウクライナは周囲を敵に囲まれており、軍事・外交の面で極めて難しい状況にあった。1651年6月のポーランドとの戦いではタタール軍(クリミア・ハン国)がポーランド側に寝返り、フメリニツキーはタタール軍を説得しようとしたが逆に拘束されたためコサック軍は大敗を喫した。この結果登録コサックの数は2万人にまで減らされ、ヘチマン国家の統治域もキエフ州のみに縮小された。フメリニツキーは同盟国を求めて一時はオスマン帝国の宗主権下に入った。またモルダヴィア公国やスウェーデンとの同盟も求めようとしたが、1654年にはロシア・ツァーリ国とペレヤースラウ条約を結んでその保護下に入った。同じ正教徒であるモスクワとの同盟は、イスラム教徒のオスマン帝国との同盟よりも当時のウクライナでは歓迎されたが、その後は長年にわたるモスクワによるウクライナ支配の口実をも齎してしまった側面がある。 ヘーチマン国家は制度上はポーランドに属する自治領でありながらも事実上はモスクワが宗主権を行使することになり、自治権も次第におびやかされることになった。この協定に対する評価もウクライナとロシアではわかれている。ウクライナはこの協定を、フメリニツキーが結んだ多数の短期的な同盟の単なる一つとみなしたが、ロシアおよび後のソ連は、キエフ・ルーシの崩壊以来、歴史の中で別々の道を歩んだロシアとウクライナがこの協定でついに「永続的に」統合されたとみなした。 ポーランドから守ってもらうためモスクワの保護下に入ったウクライナであったが、1656年にポーランドとモスクワが対スウェーデン戦争のために同盟を結んだことが、モスクワに対するフメリニツキーの怒りを呼び起こした。彼はその後、ポーランドだけではなくロシア・ツァーリ国からの独立をも目指して再び蜂起しようとしたが失敗し、その直後1657年に病死してしまった。
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