ペリクレスと死別以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 07:01 UTC 版)
前429年、アテナイのペストと呼ばれる伝染病が流行し、ペリクレスは姉妹そして先妻との間にもうけていた嫡出男子パラロスとクサンティッポス両方に先立たれる。そのためペリクレスは弱気になるに連れて涙を流すようになり、アスパシアはそばで彼を支えたがその傷が癒えることはなかった。ペリクレスが亡くなる直前、アテナイ市民はペリクレスとアスパシアの間に生まれた半アテナイ人の小ペリクレスをアテナイ市民とし正式な遺産相続人にできるように紀元前451年制定の市民権法を変更することを許可した。この決定は両親ともアテナイ人でなければアテナイ市民と認めないという市民権法を発案したのがペリクレス本人であることを考えれば尚更驚くべきものである。ペリクレス本人も紀元前429年の秋に伝染病にかかり病死した。 プルタルコスは自身の著書の中でアイスキネス・ソクラティクス(Aeschines Socraticus)が著したアスパシアとの対話篇(現在は消失)を引用し、ペリクレスの死後アスパシアはアテナイの将軍で民主主義指導者リシクレスと共に生活し新たな子どもをもうけ、リシクレスを政治の第一人者にしたという趣旨の事を書いている。前428年にリシクレスが戦死した のに伴い当時の人々の記録も途絶えたため、息子の小ペリクレスが将軍に選ばれた時やアルギヌサイの海戦後に小ペリクレスが処刑された時にアスパシアが存命だったのかどうかなど、その後のアスパシアの様子は不明である。多くの歴史学者が推定しているアスパシアの没年は前401年-前400年であるが、これはアイスキネスの『アスパシア』という話の構造から考えられる彼女の年譜を考えた結果、ソクラテスが前399年に処刑される前にはアスパシアは亡くなっていると考えられることがもとになっている。
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