ペッリコとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 02:43 UTC 版)
「ピエーロ・マロンチェッリ」の記事における「ペッリコとの出会い」の解説
数ヶ月後には、マロンチェッリは共犯者の名前を口に出す事なく、また自由主義・立憲主義的な思想も確固たる証拠が得られなかったため解放される。解放後はパヴィアの音楽施設で働きつつアルカンジェロ・コレッリの伝記を出版する事で生計を立てた。またミラノ移住後はコンチリアトーレにも執筆者にこそならなかったが創刊に積極的に協力し、後にともに逮捕されるシルヴィオ・ペッリコと出会っている。 ナポリ革命が発生すると、マロンチェッリはロンバルディアに点在する愛国的文学者と連絡を取ってイタリア諸邦の連合を訴えた。また同時にコンチリアトーレを創刊した事で最も有力な文学者の一人であったペッリコをカルボナリに誘った。ペッリコ自身はそれにさほど興味を示さなかったものの、マロンチェッリが弟フランチェスコに宛てた手紙がオーストリア帝国当局に発覚、その内容はペッリコのカルボナリ入党を示唆するものであった。そのため1820年10月6日にはマロンチェッリは逮捕され、次いでシルヴィオ・ペッリコも巻き添えを食う形で拘束された。 その後二人はペッリコ・マロンチェッリ裁判で死刑を宣告されるも減刑され、それでもマロンチェッリには懲役20年という極めて厳しい刑罰が科されている。刑罰確定後、マロンチェッリはペッリコ同様にスピルバーグ要塞(イタリア語版)に収監され、そこでは厳しい刑務所生活の過程で癌を患い左腕を切断した。なお、1823年にはシルヴィオ・ペッリコと再会。
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