ヘルニキの離反 - 紀元前380年代
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「ローマ・ヘルニキ戦争」の記事における「ヘルニキの離反 - 紀元前380年代」の解説
100年間に渡ってラティウムとヘルニキはローマに忠誠を示してきたが、紀元前389年にローマがアッリアの戦いでガリアに敗北しさらにローマ自体にまで侵攻されると、ヘルキニはローマから離反したとリウィウスは述べる。紀元前386年と紀元前385年には、ラティウム兵とヘルニキ兵が、ウォルスキを支援して戦っている。ローマはこれに抗議し、捕虜の送還を拒否したが、宣戦布告は行わなかった。 リウィウスはガリアによるローマの略奪は重大な打撃であり、近隣の都市がローマに反乱するきっかけを与えたとする。しかし現代の歴史家は、リウィウスのような古代の歴史家がガリアによる略奪の影響を過大評価していると考えている。同様に、リウィウスが述べるヘルニキの離反にも同意していない。この間にローマとヘルニキの直接的な戦闘は記録に無い。むしろ、ローマとラティウム、ヘルニキとの軍事同盟の必要性自体が薄れている。これは、ローマが条約の義務から開放され、より行動の自由を得るという意識的な政策であったかもしれない。しかしながら、ラティウムとヘルニキもアエクイとウォルスキの脅威が消滅したために、ガリアのローマ略奪を機会に、ますます支配的となっていたローマとの同盟を破棄したのかもしれない。これが、一部のラティウム兵やヘルニキ兵がウォルスキのために戦ったことにつながった可能性はあるが、これ自体がリウィウスの創作である可能性もある。この信憑性に欠ける出来事を除くと、紀元前366年までローマとヘルニキの戦いは記録されていない。
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