ヘルニキの最後の反乱(紀元前307年-紀元前306年)
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「ローマ・ヘルニキ戦争」の記事における「ヘルニキの最後の反乱(紀元前307年-紀元前306年)」の解説
第二次サムニウム戦争も終わりに近い紀元前307年、サムニウム軍との戦闘において捕虜となった兵士の中に、多くのヘルニキ人が含まれていた。このため、ローマはいくつかのラティウムの都市を警戒下に置き、その市民がサムニウム軍に自発的に参加したり、あるいは徴兵されたりしていないか調査を行った。これに対して、翌紀元前306年になってアナグニア(現在のアナーニ)を中心としたヘルニキの反乱が発生したが、同年中に容易に鎮圧された、その懲罰として、アナグニアおよび他の反乱都市はローマに併合され、その市民はキウィタス・シネ・スッフラギオ(投票権無しのローマ市民)となった。アレトゥリウム(現在のアラトリ)、フェレンティウム(現在のフェレンティーノ)、ウェルラエ(現在のヴェーロリ)等ローマに反乱しなかった都市はその後も自主性を維持し、ラテン人と同様の政治権利を有した。
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