ヘルツルの墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 03:51 UTC 版)
晩年、テオドール・ヘルツル(1860年 - 1904年)は自分の希望をこう述べた。 「私は鉄の棺に入り、父の隣に葬られることを望む。そして、いつか人々が私の亡き骸をエレツ・イスラエル(パレスチナ)の地に運んでくれるまで待っている。そして、亡くなった私の父と姉のパウリーネ、そして私の親族がもし死んだら彼らの墓もそこへ移して欲しい。」 それから数年後、ヘルツルは死去し、ウィーンに埋葬された。そして45年後の1949年、彼の遺体は遺言どおりイスラエルに運ばれ、現在のヘルツルの丘へ再び埋葬された。埋葬場所に関しては特別に委員会が敷かれ決められた。墓のデザインについてもコンペティションが行われ、63の案件の中から、ヨセフ・クラーヴァインによる特に飾りのない、ヘルツルの名前の入った花崗岩石を墓標とするデザインが選ばれた。1951年ヘルツルの丘は国立墓地となった。 ヘルツルの両親や姉もヘルツルの丘に埋葬されている。また、ヘルツルの子供を彼の近くに葬ることは、彼の明白な希望だったが、諸々の理由があり、彼の子供たちは彼の墓のそばには埋葬されていない。彼の3人の子供のうち長女と長男の亡き骸は2006年にイスラエルに運ばれた。末の娘はホロコーストにより殺害され、遺体は現在でも見つかっていない。ヘルツルの唯一の孫にあたる人物は2007年の12月にヘルツルの丘に運ばれ、埋葬された。
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