フーシェ、コロー・デルボワの派遣
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「リヨンの反乱」の記事における「フーシェ、コロー・デルボワの派遣」の解説
やがてクートンに代わってジョゼフ・フーシェ、コロー・デルボワらの派遣が決定された。コロー・デルボワは11月7日、フーシェは11月10日にそれぞれリヨンに到着している。コロー・デルボワについては、彼がリヨンで俳優をしていた際、舞台で野次り倒されたことがあったため、リヨン市民に対する処罰にはもってこいとされたという説がある。 彼らはクートンの処置を生ぬるいものとして、リヨンへの徹底的な報復を開始する。まず、処刑されたシャリエの遺体を担ぎ出し、彼を称えるパフォーマンスを行った。翌日には革命裁判所が設置され、12月4日から本格的な処刑が開始された。ギロチンによる処刑では「あまりにまだるっこい」として、大砲による処刑や、自分で墓穴を掘らせた上での銃殺などが行われた。フーシェにいたっては、都市人口の10%を処刑する、というノルマを己に課していたとも言われる。 これにより、リヨンの反乱に関った人々は処刑され、プロトー平原には死体が溢れかえった。さらに、国民公会の宣言にのっとり、リヨンの街も徹底的に破壊される。それでも処刑が続いたため死体はローヌ川・ソーヌ川に沈められたが、一部はいかだに載せられて下流へと流された。これは、同じく王党派の反乱が起こったトゥーロンまで死体が流れ着けば、叛徒への脅しとなるというフーシェの指図によるものだった。トゥーロン奪還の報が届くと、その日の祝いとしてさらに200名もの叛徒の処刑を行った。 3ヶ月にわたる虐殺で、2000人近くの人々が処刑されたといわれる。なお、フーシェはこの一件の後で「リヨンの霰弾乱殺者」と呼ばれるようになっている。
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