フォーレとドビュッシー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 02:12 UTC 版)
「ペレアスとメリザンド (フォーレ)」の記事における「フォーレとドビュッシー」の解説
メーテルリンクの戯曲『ペレアスとメリザンド』に触発され、これをオペラにすることを思い立ったのが、クロード・ドビュッシーである。ドビュッシーは戯曲が初演された1893年からすでにオペラの作曲に取りかかっており、1898年ごろには音楽がほぼできあがっていた。女優のキャンベルは、ドビュッシーに対しても、作曲中のオペラの音楽から劇付随音楽に使用することを依頼していた。しかし、ドビュッシーがこれを断ったため、キャンベルはフォーレを頼むことになる。ドビュッシーは、これについて、「彼らの公演に私の音楽は向いていない。(彼らの公演は)詰め込みすぎで混乱しており、鈍重だ。それに、フォーレが『ペレアス』を手がけたからと言ってなにができよう。俗物で間抜けな連中にはうってつけの音楽家だろうが。」などと手紙に書いている。当時、ドビュッシーはフォーレをサロン音楽の代表者とみなして厳しく批判していた。フォーレの音楽に対するこのような見方は、現在もその影響がある程度残っているといえよう。 ドビュッシーはフォーレの付随音楽による上演も観ており、「糸を紡ぐ女は、まるで温泉場のホステスのようだ」と評している。事実、ドビュッシーのオペラでは、糸を紡ぐ女の場面はカットされている。こうした改変は、原作者のメーテルリンクにとっては不満であったようで、原作を歪曲するものだとして裁判沙汰となった(結果はドビュッシーの勝訴)。また、オペラの出演者をめぐっても、ドビュッシーとメーテルリンクは諍いを起こしている(これもドビュッシーの勝訴)。こうした紆余曲折の末、ドビュッシーのオペラが初演されたのは、フォーレの初演に遅れること4年後の1902年である。 とはいえドビュッシーからフォーレにあてた手紙では Mon cher maître et ami「わが親愛なる友の先生へ」と極めて丁寧かつ親しげな口調で語りかけており、人間関係においては必ずしも敵意を抱いてはいなかった。
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