フェラーリとフォード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:14 UTC 版)
「ル・マン24時間レース」の記事における「フェラーリとフォード」の解説
1960年-1963年のル・マン24時間レースに連勝するなど、1960年代初頭のスポーツカー・レースで最強の座に君臨していたフェラーリは、モータースポーツへの過剰投資や、当時イタリア北部で勢力を増していたイタリア共産党などの左翼政党が後援した労使紛争とそれがもたらしたストライキ、さらにフェラーリの妻のラウラによる現場への介入により、1961年11月にはカルロ・キティら主要メンバーによるクーデターが勃発し、キティやジオット・ビッザリーニら役員8名が去るなどの事件が起きたことも影響し経営が苦境に陥った。 その後1963年に、スポーツカーレースでの活躍を望んでいたヘンリー・フォード二世率いるフォードが買収することになり、マラネッロの本社で契約の直前までこぎつけた。しかし、金銭面で最終的に折り合わなかったこと、さらにモータースポーツ部門を引き続き統括したかったエンツォ・フェラーリが突如これを破棄した(なおこの背景には、フェラーリを外国の企業に渡したくなかったフィアット・グループのトップのジャンニ・アニェッリの意向も影響していたと言われる)。 これに怒ったヘンリー・フォード二世が、フェラーリを破ることを目指して、当時「モータースポーツ史上最高額」とも言われるほどの多額の投資をし「GT40」を開発し、アメリカ国内外の選手権で経験を積みつつ、1964年にル・マン24時間レースに参戦した。しかし、マウロ・フォルギエーリがル・マン向けに開発したマシン「250LM/275P」に対し、ノウハウがないフォードは苦戦し連敗を喫した。 しかしキャロル・シェルビー率いる「シェルビー・アメリカン」の助けを借りマシンを改良し、さらにフィル・ヒルやボブ・ボンデュラント、マリオ・アンドレッティやデイビット・ホッブス、ダン・ガーニーなどの経験豊富なドライバーを擁して6台もの大量エントリーをすることで1966年に初優勝を飾った。その後フェラーリはF1に集中し、以降数年間はフォードが連勝することになる。 なおその後2社ともに撤退したが、現在フェラーリはLM-GTEに参戦するプライベートチームへのマシンの提供という形で、フォードはLM-GTEにワークスとして復帰しているが、2019年で撤退した。
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