ピョートル大帝との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:32 UTC 版)
「アブラム・ガンニバル」の記事における「ピョートル大帝との出会い」の解説
1705年に、ポーランド・リトアニア共和国のヴィリニュス(現リトアニアの首都)にあるサンクト・パラスケワ教会で、洗礼機密を受けた。ピョートル1世(大帝、在位1682-1725年)が彼の代父となった。ガンニバルがヨーロッパに迎え入れられたのは、ピョートル1世の命令によるものであった。招致されたアラブ人の子供は、明らかにガンニバルだけではなかった。ヨーロッパ王家の宮廷で黒人の子供は珍重されたが、ピョートルの目的は異なっていた。当時のヨーロッパでは、アラブ人は野蛮で文明化されていない人々だと思われていた。ピョートル1世はこの子供たちを、ロシア貴族の子弟と同様に、芸術や科学をよくすることを証明し、肌の色ではなくその能力で認められるよう、見せたかったのである。[要出典] ロシア近世史家土肥恒之の著書『ロシア・ロマノフ王朝の大地』によると、ピョートルには「身分的な偏見がまったくなかった」。ピョートルは身分や出自にこだわらず、才能や技術のある人材を登用した。同時に、この型破りなツァーリは、新しいものや奇異なものを好んだ。1697年から西ヨーロッパ視察に偽名で出かけたさいには、アムステルダムの博物館で「50人分のアルコール漬けの小人の標本」を購入したり、人体解剖を見学したりした。またロンドンでは時計や地球儀といった先端商品とともに、黒人奴隷を数人買っている。
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