ピクニック大会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 15:22 UTC 版)
詳細は「汎ヨーロッパ・ピクニック」を参照 1989年8月、旧東ドイツ国民が『ピクニック』と称して隣国のオーストリアに大量越境した。当時東ドイツから同じ東側陣営のハンガリーへの旅行は許されていた。旧西ドイツ国民は、チェコスロバキアを経由してハンガリーとオーストリアとの国境であるショプロンに東ドイツ市民を集めて、中立国オーストリア経由で西ドイツへ脱出させた。一部人々は切断した鉄条網を持って越境した。 ピクニックを装った亡命に手を焼いた東ドイツは、市民たちの不満を和らげるため、その後西ドイツへの旅行を認めることになった。11月9日、東ドイツ当局の記者会見で、西側への旅行は認めるが許可が必要と発表。それを西ドイツのテレビ局が東側が国境を開放したと伝え、その情報が一気に流された。東ベルリン市民は西側のテレビを見ていたからである。そして騒ぎが始まった。 テレビを見て真に受けた東ベルリン市民が、国境沿いの検問に続々と集結し始めた。警備兵は何も知らされていないので止めようがなかった。東ベルリン市民は次々と検問ゲートを開けて西ベルリンになだれ込んだ。こうしてベルリンの壁は崩壊したのである。東西冷戦終結上、特記される都市である。
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