パンジャル王国とジャンガラ王国の抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 18:52 UTC 版)
「クディリ王国」の記事における「パンジャル王国とジャンガラ王国の抗争」の解説
アイルランガの死後、パンジャル王国の君主になったのは、シュリー・サマラヴィジャヤであったが、ジャンガラ王国のマパンジュ・ガラサカンによって打ち負かされた可能性があると考えられている。ジャンガラ王国には、ガラサカン王をはじめとして三代の王名がプラサスティから確認できるがパンジャル王国にはそれに対応するプラサスティがないこともそれに関連しているのかもしれない。ただ一方で、パンジャル王マハンジ・アラジュン・アーイエス王がジャンガラ王国を屈服させたことも記録に残っているため、両王国が一定期間抗争していた事実はあったようである。その後の史料は、1117年のパンジャル王国の記述までしばらく空白期間となる。1117年に即位したのは、狭義のクディリ王国の初代の君主バーメーシュワラ(位1117年 - 30年)である。バーメーシュワラを継いだのは、ジャヤバヤともジョヨボヨ(位1135年 - 57年)とも呼ばれる王で、傑出した人物だったとされるが、知られているのは、彼の治世の末年に詩人ムプ=セダーとムプ=パヌルによって『バラッダユダ』というカカウィン作品が書かれたことである。この作品は、兄弟の家系であるバンダワ家とクラワ家の争いを描いた一種の叙事詩で、ジャンガル王国とパンジャル王国の兄弟国争いを喩えた作品ともとらえられる。その後、整備された官僚制と軍隊を持ち、胡椒などの交易品によってクディリ王国は繁栄したが、1222年、クディリ王クルタジャヤは、討伐軍を率いてカウイ山の東側のトゥマペルを本拠としたケン・アンロクとガンテル村で戦った結果、精強なトゥマペル軍によって打ち破られて滅ぼされ、シンガサリ王国に代られた。
※この「パンジャル王国とジャンガラ王国の抗争」の解説は、「クディリ王国」の解説の一部です。
「パンジャル王国とジャンガラ王国の抗争」を含む「クディリ王国」の記事については、「クディリ王国」の概要を参照ください。
- パンジャル王国とジャンガラ王国の抗争のページへのリンク