パロメティーヤ移住地への再入植と現移住地への再入植
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「オキナワ移住地」の記事における「パロメティーヤ移住地への再入植と現移住地への再入植」の解説
うるま病、グランデ川の氾濫による水害被害を受け、1955年4月には再移住のための調査とアメリカ政府関係者およびボリビア政府と折衝を開始した。結局、移住者たちは、1年も経過しないうちに、うるま移住地を放棄し、新たな移住地への再入植を余儀なくされた。1955年6月に新移住地へ移動することになった。新移住地はうるま移住地から130キロ離れた、サンフアン移住地に近いサーロ郡パロメティーヤとなった。 しかし、パロメティーヤ周辺地主の反対と土地不足から、再度移住地の変更を余儀なくされた。1956年3月にグランデ川の西岸、旧うるま移住地の対岸に新たな移住先が選定された。同年7月に現在のオキナワ第1移住地への3度目の入植がはじまった。8月にはアメリカ政府の援助によるブルドーザーが導入され、仮道路の建設が開始した。 アメリカ政府は約18万ドルを援助金として交付した。この援助資金で購入したトラック2台と大型製材機が到着した。同年12月には、第4次移住者たちを受け入れ、クリスマス休暇返上で作業に追われた。第4次移民団で入植した具志堅興貞は、先に入植していた移民者の苦労を以下のように記述している。 (先輩移住者たちは)沖縄から持ってきた蓄えは底をつき、誰一人として持っているものは何一つ持っていなかった。私達が到着したとき、先輩移住者が身に着けていたものすべてボロボロ、彼らはほとんど現地の貧しい人々そのものでなかっただろうか。 — 具志堅興貞、具志堅、沖縄移住地 (1998, pp. 80)
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