パダーニャ事件と迷走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/19 07:25 UTC 版)
「ウンベルト・ボッシ」の記事における「パダーニャ事件と迷走」の解説
1996年、野党に転じてからもボッシは過激な主張で支持を集め、地方分権に関しては「連邦制への移行」もしくは「北部諸州の分離独立」を要求するに至るまでエスカレートしていった。同年9月15日、ヴェネツィアでポー平原に由来する新国家パダーニャ(Padania)の独立宣言を行い、党名も「パダーニャ独立の為の北部同盟」(Lega Nord per l'Indipendenza della Padania)を正式名称としたが、左派政党を中心とした政府与党からは黙殺された。独立議会の選挙というパフォーマンスも行ったが、独立宣言は自国政府はもちろん国際社会からも一切承認されなかった。 1998年、演説でボッシは「我々はネオ・ファシストの悪党共を追い詰めなければなりません。彼らが我々から票を奪うのなら、我々は大戦の後のように奴等を暴力で排除しましょう」と発言した。戦後に共産パルチザンがRSI軍(枢軸側に残って戦ったムッソリーニ派の反政府勢力)の兵士達を虐殺した事を賞賛するような発言はイタリア社会運動を前身とする国民同盟から大きな反発を呼び、ボッシは「暴力を扇動した」として禁固1年の判決を言い渡された。またフォルツァ・イタリアとも党首であるシルヴィオ・ベルルスコーニを「マフィア」と罵倒して険悪な間柄となった。 左右両勢力から敵視された北部同盟とボッシは政界で孤立し、党内においても独立を非現実的と感じる党員が離党して他党に移籍する動きが起きた。
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