バン・アグイのパーンドゥランガへの南遷とイスラーム化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:51 UTC 版)
「チャンパ王国」の記事における「バン・アグイのパーンドゥランガへの南遷とイスラーム化」の解説
モンゴルに対する戦勝と大越との緊張緩和をもたらしたヴィジャヤ王朝の名君ジャヤ・シンハヴァルマン3世(制旻)の死後、大越・チャンパの抗争が再燃した。ヴィジャヤ王朝のチャンパ王制蓬峩(Chế Bồng Nga)は大越陳朝の都である昇龍 Thăng Long(東京 Đông Kinh、河内 Hà Nội)を2回にわたり占領した。この戦争で陳睿宗が敗死して陳朝の権威が失墜すると、胡季犛により帝位を簒奪され大虞胡朝が建設された。1390年にチャンパ王制蓬峩と交替した羅皚(在位:1390年 - 1400年)も侵攻を続けた。『占皇家編年史』によれば1397年にチャム都市バン・アグイ Bal A-nguei がジュク Jekの侵攻で滅亡し、遺民が中部南端のパーンドゥランガ(『占皇家編年史』ではパンダラン Pangdarang)に避難した。アグイの正確な位置は不明であるが、アグイ A-nguei はクアンガイ Quảng Ngãi(広義省)という地名の起源と考えられている。ジュクは羅皚治下のヴィジャヤ王朝の都、闍槃(『スジャラ・ムラユ』がヤク Yak と呼ぶ都市)を指すと考えられる。『安静古録』によれば、ゲアン省[乂安省]のチャム系氏族「チェー(制)」族は1389-1398年ごろの移住と伝えられており、羅皚時代にチャンパから大越に避難した人々と考えられる。これはバン・アグイ Bal Anguei からパンダランへの避難と同時期である。
※この「バン・アグイのパーンドゥランガへの南遷とイスラーム化」の解説は、「チャンパ王国」の解説の一部です。
「バン・アグイのパーンドゥランガへの南遷とイスラーム化」を含む「チャンパ王国」の記事については、「チャンパ王国」の概要を参照ください。
- バン・アグイのパーンドゥランガへの南遷とイスラーム化のページへのリンク