バイロンの専属医
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:26 UTC 版)
「ジョン・ポリドリ」の記事における「バイロンの専属医」の解説
ポリドリは1804年に設立されたばかりのアンプルフォース・カレッジ(英語版)の初期の生徒の一人であり、1810年にはエディンバラ大学に進学し、夢遊病に関する論文を書き、1815年8月1日に19歳で医学博士の学位を取得した。 1816年、ポリドリはバイロン卿の専属医として仕え、彼のヨーロッパ旅行に同行した。出版社ジョン・マレーがポリドリに500ポンドを提供して旅行日記を書かせたものが残っているが、これはポリドリの甥であるウィリアムが後に編集したものである。2人はメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン(メアリー・シェリー)、その夫となるパーシー・ビッシュ・シェリー、そして彼らの連れ合い(メアリーの義理の妹)であるクレア・クレアモントと会った。 6月のある夜、ドイツの怪奇談を集めたフランスの『Fantasmagoriana』を皆で朗読した後、バイロンはそれぞれが怪談を書くことを提案した(ディオダティ荘の怪奇談義)。パーシーは『怪談の断片』を書き、マシュー・グレゴリー・ルイスが語った5つの怪談を書き留めた。これは彼の死後に出版された『ジュネーヴでの日誌』の中に残っている。メアリー・シェリーは、後に『フランケンシュタイン』に発展する物語を夫と一緒に書いた。バイロンは、オーガスタス・ダーヴェルを主人公にした未完成小説『A Fragment』を書いた(すぐに放棄した)が、ポリドリは後にこれを基にして、英語で最初に出版された近代的な吸血鬼の物語『吸血鬼』を書いた。 1816年6月15日にポリドリがパーシーと交わした会話が日記に記されており、これが『フランケンシュタイン』の起源あるいは発端とされている。彼らは「生命の原理の本質」について議論していた。
※この「バイロンの専属医」の解説は、「ジョン・ポリドリ」の解説の一部です。
「バイロンの専属医」を含む「ジョン・ポリドリ」の記事については、「ジョン・ポリドリ」の概要を参照ください。
- バイロンの専属医のページへのリンク