ノヴゴロド・セーヴェルスキー公イーゴリのポロヴェッツ遠征
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「キプチャク」の記事における「ノヴゴロド・セーヴェルスキー公イーゴリのポロヴェッツ遠征」の解説
1185年4月23日、オレーグの孫でスヴャトスラフの子であるイーゴリがノヴゴロド・セーヴェルスキーから出発し、トルプチェフスクからは弟のフセヴォロド・スヴャトスラヴィチが、ルイリスクからは甥のスヴャトスラフが、プチーヴリからは子のヴラヂミルが合流した。やがてポロヴェッツの諸隊と遭遇し、シュウルリヤ川を挟んで対峙した。戦闘がはじまり、前衛のルーシ軍がポロヴェッツ軍に打撃を与え、捕虜を捕えた。一夜明けて、全てのポロヴェッツであるコンチャークとブルンの子グザ,トクソビチ,クロビチ,ステビチ,テルトロビチの各部族が集結した。これを見たイーゴリら一同は馬から降りて戦いつつ、ドニェッツ川を目指した。途中、イーゴリが左手を負傷した他、多くの者が負傷し、戦死した。遂にイーゴリはタルゴロフの配下チルブークによって、フセヴォロドはグザの子ロマンによって、スヴャトスラフはヴォブルツェヴィチ氏のエルデチュークによって、ヴラヂミルはウラシェヴィチ氏のコプチによって捕えられた。その時戦場において、コンチャークは子の嫁の父であるイーゴリの身に保証を与えた。一方、キエフ大公フセヴォロドの子スヴャトスラフはカラチョフに赴き、ドン川のポロヴェッツ人に対して遠征すべく、戦士たちを集めていた。スヴャトスラフ3世がノヴゴロド・セーヴェルスキーの近くに来た時、イーゴリたちがスヴャトスラフ3世にかくれてポロヴェッツ遠征をおこなったことを聞いた。不愉快に感じたスヴャトスラフ3世はチェルニゴフに至り、今度はイーゴリたちの身に起きたことを聞いた。スヴャトスラフ3世は悲嘆し、ポロヴェッツ遠征の準備とルーシの防衛を準備させた。イーゴリらを負かしたポロヴェッツらは勝利に乗じてルーシの地に向かって進軍した。この時、コンチャークはキエフに遠征し、ボニャークの仇を取ろうとしたが、グザは妻子や捕虜にされている仲間がいるセイム川に遠征しようとしたため、ポロヴェッツの軍は二手に分かれた。コンチャークはグレープの子ヴラヂミルが守るペレヤスラヴリに兵を進めて町を包囲した。ヴラヂミルは町から出てポロヴェッツに向かって突進するが、返り討ちにあって重傷を負ってしまう。一旦町へ引き返したヴラヂミルはスヴャトスラフ,リューリック,ダヴィドに援軍を要請し、ダヴィド以外の2人が救援に来たため、ポロヴェッツはペレヤスラヴリから撤退した。
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