ノヴゴロド・セーヴェルスキー公イーゴリのポロヴェッツ遠征とは? わかりやすく解説

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ノヴゴロド・セーヴェルスキー公イーゴリのポロヴェッツ遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:51 UTC 版)

キプチャク」の記事における「ノヴゴロド・セーヴェルスキー公イーゴリのポロヴェッツ遠征」の解説

1185年4月23日オレーグの孫でスヴャトスラフの子であるイーゴリノヴゴロド・セーヴェルスキーから出発し、トルプチェフスクからは弟のフセヴォロド・スヴャトスラヴィチが、ルイリスクからは甥のスヴャトスラフが、プチーヴリからは子のヴラヂミルが合流した。やがてポロヴェッツの諸隊遭遇し、シュウルリヤ川を挟んで対峙した。戦闘はじまり、前衛ルーシ軍がポロヴェッツ軍に打撃与え捕虜を捕えた。一夜明けて全てのポロヴェッツであるコンチャークブルンの子グザ,トクソビチ,クロビチ,ステビチ,テルトロビチの各部族集結した。これを見たイーゴリ一同は馬から降りて戦いつつ、ドニェッツ川を目指した。途中イーゴリ左手負傷した他、多くの者が負傷し戦死した遂にイーゴリはタルゴロフの配下チルブークによって、フセヴォロドはグザの子ロマンによって、スヴャトスラフはヴォブルツェヴィチ氏のエルデチュークによって、ヴラヂミルはウラシェヴィチ氏のコプチによって捕えられた。その時戦場において、コンチャークは子の嫁の父であるイーゴリの身に保証与えた一方キエフ大公フセヴォロドの子スヴャトスラフはカラチョフに赴き、ドン川のポロヴェッツ人に対して遠征すべく、戦士たち集めていた。スヴャトスラフ3世ノヴゴロド・セーヴェルスキー近くに来た時、イーゴリたちがスヴャトスラフ3世かくれてポロヴェッツ遠征おこなったことを聞いた不愉快に感じたスヴャトスラフ3世チェルニゴフ至り今度イーゴリたちの身に起きたことを聞いたスヴャトスラフ3世悲嘆し、ポロヴェッツ遠征の準備ルーシ防衛準備させた。イーゴリらを負かしたポロヴェッツらは勝利乗じてルーシの地に向かって進軍した。この時、コンチャークキエフ遠征しボニャークの仇を取ろうとしたが、グザ妻子捕虜にされている仲間がいるセイム川遠征しようとしたため、ポロヴェッツの軍は二手分かれたコンチャークグレープの子ヴラヂミルが守るペレヤスラヴリに兵を進めて町を包囲した。ヴラヂミルは町から出てポロヴェッツに向かって突進するが、返り討ちにあって重傷負ってしまう。一旦町へ引き返したヴラヂミルはスヴャトスラフリューリックダヴィド援軍要請しダヴィド以外の2人救援に来たため、ポロヴェッツはペレヤスラヴリから撤退した

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