ノヴゴロドとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:52 UTC 版)
「ミカイラス・オレリカイティス」の記事における「ノヴゴロドとの関係」の解説
1456年のヤジェルビーツィ条約によってノヴゴロド共和国はモスクワ大公国に外交権を委譲し、裁量的に外国と条約を結ぶ権利を失った。ノヴゴロドは復権を賭けてポーランド=リトアニア共和国を治めるカジミェシュ4世との反モスクワ同盟を企図した。1470年代中盤に大主教座の筆写室で記されたところによると、ミカイラスはカジミェシュ4世の名代としてノヴゴロド側の実権を握っていた女市長マルファ・ボレツカヤと結婚するため、ノヴゴロドに赴いたという(あるいは無名のリトアニア貴族を彼女と結婚させるためであったともいう)。これを受けて、モスクワはノヴゴロドが条約に違反したのみならず、東方正教に対する背教行為であるして怒り狂った。というのも、この結婚によってノヴゴロドは東方正教からカトリックへ改宗すると考えられたからである。ただし、ミカイラスは当初よりマルファと同様の正教徒であり、ミカイラスの兄弟はカジミェシュ4世への態度が各々大幅に異なっており、この背教行為の事実は非常に疑わしいとも見られている。ミカイラスは1470年10月8日に従士団とともにノヴゴロドに入り、1471年3月15日まで留まった。ミカイラスの従士団にはジュダイザーを信奉する異端者が多数含まれていたため、ノヴゴロドでこの異端信仰は流行した。そのため、イヴァン3世がノヴゴロド征服後の1479年に数人の主教をモスクワに移したことで、ジュダイザーはモスクワにも拡散してしまった。ミカイラスが退却したのを見届けたイヴァン3世はノヴゴロドに軍を遣わし、7月のシェロン河畔の戦いでこれを撃破した。1478年、ノヴゴロドは最終的にモスクワによって併合された。
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