ノヴォロシアとカフカースにて
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「ミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフ」の記事における「ノヴォロシアとカフカースにて」の解説
1823年5月7日、ノヴォロシア総督に任命された。以降20年ほど務めたが、その間にノヴォロシアは大きな発展を遂げ、彼は「オデッサの創造者」と呼ばれた。1828年に黒海ではじめて蒸気船を航行させ、同年の露土戦争では負傷したアレクサンドル・セルゲーエヴィチ・メーンシコフに代わってヴァルナ包囲戦(英語版)を指揮した。続く1829年の戦役ではオスマン帝国で疫病が発生したが、ヴォロンツォフの努力で疫病がロシアに蔓延しないで済んだ。 1844年、カフカース総督に任命された。カフカース・イマーム国(英語版)のシャミールとの戦役、特にチェチェン東部の森を越える戦役での功績によりクニャージ(公)に叙され、1848年にはダゲスタンの3分の2を占領することに成功した。1853年初に病気により引退、1856年に陸軍元帥に叙された後、同年にオデッサで死去した。ヴォロンツォフの彫像はオデッサとトビリシで建てられた。
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