ネパールとの戦いとは? わかりやすく解説

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ネパールとの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 08:13 UTC 版)

シッキム王国」の記事における「ネパールとの戦い」の解説

1769年ゴルカ王国君主プリトビ・ナラヤン・シャハネパール王国建国すると、東方向けて進出したその際、ギュルメ王の強制徴用反発していたリンブー族はネパール軍協力し勢いづいたネパール軍はシンガリラ山脈の西の領土と、タライ地方ではティスタ川までも占領した1780年、プンツォ王は崩御し息子テンジン・ナムゲル王位継承した。その治世もまたネパールとの戦いがあり、両軍小競り合い継続されていた。テンジン王は反撃仕掛け一時シッキム軍がネパール領土進撃した。だが、これがネパール軍総攻撃招き、その軍勢1788年から1789年にかけてチヤ峠を越えて首都ラブデンツェ急襲したテンジン王は何とか王子とともに首都脱出することに成功しカビ経てチベットへ亡命ダライ・ラマ8世庇護受けた。この侵攻により、シッキムティスタ川西岸の領土ネパール征服されてしまった。 1793年テンジン王は亡命先ラサ崩御した。息子ツグプ・ナムゲル王位継承しシッキムへと帰国した。ツグプ王はシッキム帰還すると、首都ラブデンツェからトゥムロン遷都した。

※この「ネパールとの戦い」の解説は、「シッキム王国」の解説の一部です。
「ネパールとの戦い」を含む「シッキム王国」の記事については、「シッキム王国」の概要を参照ください。

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