ドローチャー・鬼頭監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:36 UTC 版)
「埼玉西武ライオンズ」の記事における「ドローチャー・鬼頭監督時代」の解説
1976年 新監督に就任したドローチャーが来日直前に急病で倒れ、春季キャンプは監督不在のまま実施。しかし、「オープン戦までには来日できる」「再び健康状態が悪化した」というドローチャー側の二転三転の応答に業を煮やし、契約を解除。ヘッドコーチの鬼頭政一が緊急昇格し、監督に就任。戦力不足や前年からのゴタゴタの影響もあり、前後期とも6位の最下位に終わる。吉岡悟がプロ入り9年目で初の首位打者。10月12日に命名権を持つ冠スポンサーが桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携し、球団名がクラウンライターライオンズ(Crown-Lighter Lions)に改まることが決定した(本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうために省略。10月15日にパ・リーグより承認)。しかし、太平洋クラブから若干の資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームの右袖には太平洋クラブのロゴマークが付けられる。
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