トーマス・ボドリー卿と大学図書館の再建
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「ボドリアン図書館」の記事における「トーマス・ボドリー卿と大学図書館の再建」の解説
16世紀後半、図書館は収蔵物の減少という事態を迎える (加えて図書館の家具は売りに出され、ハンフリー公が寄贈した書物はたった3つしか収蔵品の中に残っていない) 。この現象は1598年に終わり、 図書館は再びその蔵書を増やし始める。マートン・カレッジの前代フェローであったトーマス・ボドリー(英語版)が学長に図書館の拡充を援助するよう求める内容の以下のような手紙を書いた。「where there hath bin hertofore a publike library in Oxford: which you know is apparent by the rome it self remayning, and by your statute records I will take the charge and cost upon me, to reduce it again to his former use.」。これによりハンフリー公図書館は拡張工事が行われ、ボドリーは蒐集品の一部を提供した。図書館は1602年11月8日に“ボドリアン図書館” (公式には「ボドリーの図書館」 - Bodley's Library)と名前を変えて再出発することになった。 ボドリーの蒐集は広範囲に渡っていた。図書館歴史学者のイアン・フィリップ (Ian Philip) によると、1603年6月頃にボドリーはトルコから写本を取り寄せようと試み、それは“最初の中国語図書を獲得した年と同年であった”。1610年、ボドリーはロンドンの書籍出版業組合と書籍出版業組合が登録したすべての書物の複製を図書館に収蔵することで合意した。ボドリアン図書館の収蔵量の増加は非常に速く、1610年から1612年にかけて建物の拡張が行われ (アーツ・エンド - Arts End として知られている) 、1634年から1637年にかけて再度拡張工事が行われた。1654年、ジョン・セルデンは亡くなる際、自身が蒐集した多くの書物や写本をボドリアン図書館に寄贈した。ハンフリー公図書館の後の拡張部分は現在もセルデン・エンド (Selden End)」として知られている。
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