トゥグリル・ベグとチャグリー・ベグ
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「大セルジューク朝」の記事における「トゥグリル・ベグとチャグリー・ベグ」の解説
詳細は「トゥグリル・ベグ」を参照 大セルジューク朝をガズナ朝からもぎ取ったトゥグリル・ベグは、セルジュークの孫であり、チャグリー・ベグの弟であった。最初のうちはセルジューク族はマフムードに撃退され、ホラズムに撤退したが、トゥグリル・ベグとチャグリー・ベグは、メルブとニーシャープール奪取に導いた。(1037年)後にホラサン(英語版)とバルフを通じて後継者と繰り返し襲撃し領土を交換し、1037年にガズニーを略奪さえした。1040年にダンダーナカーンの戦いでセルジューク族へと西の領土の大半を放棄させながら、決定的にマスード1世(英語版)を破った。1048年から1049年に、トゥグリル・ベグの同母異父の兄弟イブラヒム・イナル(英語版)が指揮するセルジューク・トルコは、イベリア州(英語版)の東ローマ帝国の前線地区で最初の侵入を行い、1048年9月10日にカペトロンの戦い(英語版)で5万人の東ローマ帝国・グルジア連合軍と衝突した。セルジューク族の興隆で残された荒廃は、非常に酷いもので、東ローマ帝国の流力者エウスタティオス・ボイラスは、1051年から1052年にかけてこの土地を「蛇や蠍、野生動物が生息する不潔で手の施しようのない場所」と表現した。アラブの編年史家イブン・アスィールは、イブラヒムは捕虜10万人とらくだ1万頭の背に載せた莫大な略奪品を返却したと報告している。1055年、トゥグリル・ベグはアッバース朝から委託を受けてシーア派のブワイフ朝からバグダードを奪取した。
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