テムル即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:37 UTC 版)
「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「テムル即位」の解説
モンゴル帝国-大元ウルス史上における「ナヤン・カダアンの乱」の特筆性として、この戦役を通じてテムル(後の成宗オルジェイトゥ・カアン)がクビライの後継者としての地位を堅固なものとした点が挙げられる。元々、クビライの後継者は長らく皇太子チンキムであったが、「ナヤン・カダアンの乱」直前に彼が亡くなってしまったため、クビライはチンキムの息子の中から新たに後継者を選ばなくてはならなくなった。前述したように、このように後継者について定かでない時期であるがためにクビライはナヤンらを叛乱に追い込んだのだとする説もある。チンキムには正妻ココジンとの間にカマラ、ダルマバラ、テムルという3子があったが、ダルマバラは病弱で早世したために後継者から除外され、実質的にカマラとテムルによってクビライの後継者の地位は争われた。クビライはナヤン・カダアンの乱鎮圧にテムルを同行したのと並行してカマラもカラコルム駐屯軍に派遣しており、この時クビライは両者をカアン位の後継者候補として互いに競わせようとしていたと考えられる。 前述したようにこの戦役、主に「カダアンの乱」鎮圧戦でテムルが大過なく任務を遂行できたのに対し、カマラは1289年(至元26年)にカイドゥとの戦いに敗れており、この責任を取る形でその翌年雲南方面に派遣された。1293年(至元30年)にはテムルもモンゴリアのチンカイ・バルガスンに派遣されたが、この時テムルの補佐を務めたのがウズ・テムルであり、ウズ・テムル以外にもアシャ・ブカやオルジェイ、クルムシといった「ナヤン・カダアンの乱」鎮圧戦に参加した将軍の多くがこの時テムルの指揮下に入った。そして翌1294年(至元31年)に入るとクビライが遂に崩御し、次のカアンを決めるためのクリルタイが上都にて開かれた。この時カアン候補として挙げられたのがやはりカマラとテムルであったが、出席者にはバヤン、ウズ・テムル、オルジェイ、トトガクといった「ナヤン・カダアンの乱」鎮圧戦に参加した諸将も多く参加しており、最後にはウズ・テムルとバヤンの強い後押しによってテムルが即位を果たすことができた。 以上の点から、吉野正史は「ナヤン・カダアンの乱」においてテムルが諸将を率いて戦ったことこそが、成宗テムル即位の政治的流れの始点になったのであり、ひいてはクビライ朝からテムル朝への比較的穏健な政権移行がなされた要因でもあると指摘している。
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