チャイナドレス禁止令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 02:50 UTC 版)
「チャイナドレス」の記事における「チャイナドレス禁止令」の解説
大陸中国においては、1949年10月1日の中華人民共和国成立後、1956年の百花斉放百家争鳴の時期までは、知識人女性のファッションとして認められていた。しかし、百花斉放百家争鳴による中国共産党批判に衝撃を受けた毛沢東主席が翌1957年に反右派闘争を開始すると、旧時代において労働しないことを衒った衣服として、女性の旗袍は男性の長袍とともに否定されるに至った。1958年にルーマニア人民共和国の首都ブカレストで開かれた博覧会場で数十着のチャイナドレスが展示されたのを最後に、公の場で肯定的に扱われることはなくなった。その環境下でも、国家主席となった劉少奇が1963年に東南アジアを歴訪した際に、同行した夫人の王光美は礼装としてチャイナドレスを着用している。これは彼女が「チャイナドレスこそ中国の女性にもっともふさわしい民族服」と考えてのことだった。 しかし、1966年より始まった文化大革命では、劉少奇とともに攻撃対象となった王光美に対して、前記のチャイナドレスが「外国に媚びた服装」として批判や揶揄の材料にされた。また、文化大革命期には人民服や軍服などの視覚的に男女差や社会階級を感じさせない衣服が主流となった。これらの事情のため、文革期には紅衛兵の追求を避けるために、一般家庭では発見される前に所有者自ら古着のチャイナドレスを秘かに廃棄した。 1976年の毛沢東主席の死後、鄧小平が実権を掌握し、1978年より改革開放路線が開始されると、1980年代、公式イベントでコンパニオンが深いスリットのチャイナドレスを着用して登場したことが契機となり、チャイナドレスへの偏見は下火となった。
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