ダーウィンの番犬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:51 UTC 版)
「トマス・ヘンリー・ハクスリー」の記事における「ダーウィンの番犬」の解説
1859年にはチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版した。ハクスリーは以前にそれを支持する十分な証拠がないとしてジャン=バティスト・ラマルクの進化理論を拒絶していた。しかしながら彼は、証拠がまだ欠けているが、ダーウィンが少なくとも実用的な基礎として十分に良い仮説を与えたと信じ、そして本の出版の後に続いた討論でダーウィンの主な支持者の1人になった。 彼は1860年2月に王立科学研究所における講義でこれを支持し、そして6月にオックスフォード大学博物館で行われた王立科学研究所のミーティングにおける討論において自然淘汰のダーウィンの理論に賛成した。彼の友人フッカーはこの時賛成に付いたが、オックスフォードの司教、サミュエル・ウィルバーフォースとHMSビーグル号の船長ロバート・フィッツロイが反対した。これ以降ハクスリーは、人間が猿と関係があったと主張して、人間の起源の主題に集中した。このために彼は、人間が脳の解剖学的構造によってすべての他の動物から明らかに異なっていると主張するリチャード・オーウェンから反対された。これは実際には周知の事実と一致していなかったので、種々の論文や講義で効果的にハクスリーによって反論され、1863年に「自然界における人間の位置についての証拠」("Evidence as to Man's Place in Nature")でまとめられた。この論文の口絵で初めて、ハクスリーは猿の骨格と人間の骨格を比較する有名な絵を印刷した。 ダーウィンは人前で議論することを好まなかったので、その後も好戦的なハクスリーが論争の前線に立つことになった。ハクスリーはダーウィンに宛てた手紙でこう述べている。「あなたはやり過ぎだと仰るでしょうが、私と同調者たちはあなたに対して行われる批判に反撃するために、常に爪と牙を磨いて待っています」
※この「ダーウィンの番犬」の解説は、「トマス・ヘンリー・ハクスリー」の解説の一部です。
「ダーウィンの番犬」を含む「トマス・ヘンリー・ハクスリー」の記事については、「トマス・ヘンリー・ハクスリー」の概要を参照ください。
- ダーウィンの番犬のページへのリンク