ソールズベリー侯爵内閣での活動
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「ヘンリー・チャップリン (初代チャップリン子爵)」の記事における「ソールズベリー侯爵内閣での活動」の解説
1885年、枢密顧問官に任じられた。成立した第1次ソールズベリー侯爵内閣ではランカスター公領担当大臣に就任したが、在任は短く翌年には辞職している。翌年、政権を奪還したグラッドストンがアイルランド自治法案を提出すると、これに反対した。代わって第2次ソールズベリ侯爵内閣が発足した。この際にソールズベリー侯爵から地方自治委員会関連の役職を提示されたが、このポストは閣内大臣ではなかったため辞退した。1889年、枢密院の農務部門から独立して農業委員会(英語版)が設立される運びとなり、初代委員長にはチャップリンが選ばれた。委員会に与えられた予算は少なく農業支援には難渋したものの、牛疫対策と小作法案の成立に尽力して法案成立にこぎつけた。1892年のソールズベリー首相退陣に伴って委員長職を退いた。1885年に第3次ソールズベリー侯爵内閣が発足すると、地方自治委員会委員長(英語版)に就任した。しかしこのポストでの彼は冴えず、農業規格法案の処理を誤り、ワクチン接種法案の審議では党内の有力者アーサー・バルフォアから切り捨てられる結果となった。その後、1900年にいまだ政権の続くなか委員長職を辞した。退任時には首相から叙爵の内示を受けたが固辞している。 私生活でも恵まれず、浪費のためにチャップリン家の家計は逼迫していた。1897年には一族の邸宅ブランクニー・ホールを第2代ロンズバラ伯爵に売り渡し、1900年にもタスウェルにある不動産を売却せざるを得なかった。
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