セント・アイヴズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 06:09 UTC 版)
「バーバラ・ヘップワース」の記事における「セント・アイヴズ」の解説
ヘップワース、ニコルソン、子どもたちは1939年、第二次世界大戦勃発の際にはじめてコーンウォールを訪れた。 ヘップワースは1949年から1975年に亡くなるまでセント・アイヴズのトレウィン・スタジオに住んだ。ヘップワースはこのスタジオが「魔法のような」場所だったと述べている。セント・アイヴズは戦時中、多数の芸術家の疎開場所になった。1949年2月8日、ヘップワースとニコルソンはキャッスル・インでペンウィズ芸術協会を共同創設し、ピーター・ラニヨンやバーナード・リーチを含む19名の芸術家が創設メンバーとして参加した。 ヘップワースは巧みなドローイング家でもあった。娘のサラが1944年に入院すると、ヘップワースは外科医のノーマン・カブナーと非常に親しくなった。カプナーの招きで外科手術を見学したヘップワースは、1947年から1949年の間にチョーク、インク、えんぴつで80枚近い手術室のドローイングを残している。ヘップワースは外科医と芸術家の共通点に魅せられていた。 1950年、ヘップワースの作品がマシュー・スミスやジョン・コンスタブルの作品とともに第25回ヴェネツィア・ビエンナーレのブリティッシュ・パヴィリオンで展示された。この1950年のビエンナーレを最後に、現代英国の芸術家が過去の芸術家と一緒に展示されることはなくなった。 この時期にヘップワースは石や木だけを使うのではなく、ブロンズを使うことをはじめた。ヘップワースは自分が作った大きなブロンズ彫刻を見るためによくセント・アイヴズの自宅庭園を使ったが、この庭は友人である作曲家のプリオー・レニエと一緒にデザインしたものであった。
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