スール朝における活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/09 06:09 UTC 版)
だが、ヘームーの才能を見出したのはシェール・シャーではなく、その息子イスラーム・シャーだった。 イスラーム・シャーは最初、ヘームーを最初は町の警備役を命じたが、町の管理を見てただならぬ才能があることを知り、戦場に赴かせると、ヘームーはその期待を裏切らぬ行動をとった。 このため、イスラーム・シャーは重用し、ヘームーはスール朝の武将となって、王朝を支える存在とまでなった。歴史家バダーウーニーは、「メーワールのレーワーリーの町の青物商をイスラーム・シャーは次第にとりたて、町の警備の地位から、徐々に信頼すべき腹心の一人に昇進させた」と記している。 1554年11月、イスラーム・シャーが死亡し、その息子フィールーズ・シャーが継いだが、彼の従兄弟ムハンマド・アーディル・シャーが殺害し王座を得た。これにより、スール朝が内乱となると、ムハンマド・アーディル・シャーはヘームーに最大限の信用をおき、宰相と軍総司令官の地位を与え、ヘームーは新王に刃向う勢力を次々と制圧した。 だが、主君たるムハンマド・アーディル・シャーはイブラーヒーム・シャーにデリーから追われ、東方に退いた。そのうえ、スール朝の内乱に乗じ、ムガル帝国の皇帝フマーユーンがスール朝の領土に侵攻し、1555年7月23日にデリーとアーグラを奪い返し、スール朝は滅亡した。 ヘームーはムハンマド・アーディル・シャーのため、イブラーヒーム・シャーを始めとする敵対者の対応にあたった。彼はイブラーヒーム・シャーをカールピーとカーンワーで二度にわたり破り、バヤーナーに包囲した。また、同年12月にはアーディル・シャーと敵対するムハンマド・ハーン・スーリーの軍を破り、戦死させている。
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