シンプソン大学(インディアノラ市)
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「田村哲」の記事における「シンプソン大学(インディアノラ市)」の解説
1898年(明治31年)4月というと、当時まさに米西戦争が始まったのが同月25日。田村は、この戦争で徴用される直前のペキン号で1898年4月に横浜を発ちサンフランシスコに着港。更に陸路でオレゴン州ポートランドを経由して最終目的地であるアイオワ州インディアノラのシンプソン大学に着いている。この大学は当時も今も青山学院と同じメソジスト系の学校である。 着いてすぐは夏季休暇のため授業はなく、その間に現地教会の助けを得て、匿名で『Kwaiku』という自身の信仰歴に基づく英文小説を書いている。なお、舟橋は『Kwaiku』に「懐古」の漢字を与えているが発音的にも意味的にも「懐旧」が正しい可能性もある。この小説の「まえがき Preface」には、シンプソン大学英文学教授エマ・ケート・コークヒル (Emma Kate Corkhill)博士の助けがあったことが記されている:p.6。 シンプソン大学理学部のティルトン (J.L. Tilton) 教授がマサチューセッツ州ウスター市にあるクラーク大学学長スタンリー・ホール (G. Stanley Hall)に宛てた推薦状添付の学業成績証明書によれば、田村が受けた正式な授業は1898年秋学期から始まっている。1899年冬学期・春学期・秋学期を経て、1900年の冬学期を済まし、春学期の途中からシンプソン大学の履修単位をアイオワ州立大学に移して同年1990年(明治33年)移籍したアイオワ州立大学から理学士(B.S.)を取得した。
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