シングル作戦計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 07:58 UTC 版)
「アンツィオの戦い」の記事における「シングル作戦計画」の解説
計画立案時、ドイツ軍南部イタリア方面総司令官アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥が部隊をグスタフ・ラインから引き抜けば、その時連合国軍がグスタフ・ラインを突破できるのかどうかについて議論がなされた。もしケッセルリンクがグスタフ・ラインから部隊を引き抜かなければ、シングル作戦はローマを占領しグスタフ・ラインのドイツ軍を孤立させることができるだろうし、ドイツ軍がローマとグスタフ・ラインの両方を防衛できるだけの十分な予備戦力を持っていたとしても、作戦は他の戦線で交戦中の部隊とっては有益だろうと考えられた。1943年12月18日、作戦は一旦正式に中止されたが、後に再び採択され、実行されることになった。 クラーク中将は南方(グスタフ・ライン)戦線では敵前線を突破するだけの戦力を持っているとは考えていなかった。そのため彼の計画は、南での攻勢がケッセルリンクの予備兵力を引き出すことを当てにし、それによりアンツィオ上陸部隊が速やかに内陸に進出するというものだった。しかし、彼がルーカスに下した命令書にはそのようには書かれていなかった。それには「アンツィオ付近に海岸堡を確保」し、「アルバーノ丘陵へ進出すること」とだけ書かれてあった。それはクラークのサレルノ海岸堡での激闘の経験と、ルーカスの経験不足による危惧があったためと思われている。 そのルーカスは、上層部あるいは作戦計画を全面的には信頼していなかった。攻撃に先立つ数日前、彼は日記に記している。「私の考えでは、我々は我々の求めるものを得ない限り、このようないちかばちかの作戦を引き受けるべきではない。」「(本作戦は)ものすごくガリポリの臭いがする。どうやら同じアマチュアはまだコーチ席にいるらしい。」“アマチュア”とはウィンストン・チャーチルのことであり、悲惨な結果に終わったガリポリ上陸作戦の立案者であり、そしてシングル作戦の提唱者であった。
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