サンタフェへの行軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 09:50 UTC 版)
「ニューメキシコ作戦」の記事における「サンタフェへの行軍」の解説
1861年12月20日、ニューメキシコ軍司令官のシブレー将軍は、アメリカ連合国の名の下にニューメキシコの占有を宣言した。1862年2月、シブレーはリオグランデ流域を北方に進軍し、領地の首都であるサンタフェとユニオン砦の合衆国軍貯蔵庫を目指した。連合国の前進は、クレイグ砦経由で川の西岸を渡り、そこにはキャンビ−指揮下の3,800名の合衆国軍がいた。クレイグ砦のキャンビーの軍隊には、キット・カーソン率いる第1ニューメキシコ志願兵部隊も含まれていた。それだけの大軍に進軍をできないと悟ったシブレーは、有利な条件で合衆国軍を戦いに誘い出そうと試みた。2月19日、シブレーは、合衆国軍のサンタフェとの交通を切断する意図で、砦の東の砂丘に野営した。2月20日、合衆国軍は砦から進軍したが、連合国側の激しい砲撃に襲われ、やむを得ず撤退した。翌日、連合国軍は砦から6マイル北方のヴァルヴァードの浅瀬を行軍し、キャンビーは攻撃したが、合衆国軍は体調を崩したシブレーの後に指揮を執ったトーマス・グリーン大佐率いる連合国軍にうまく避けられた。キャンビーの部隊はクレイグ砦まで退却したが、しかし降参は拒否した。シブレーは砦から離れることを選択し、サンタフェに向かって北方への進軍を続け、3月10日に占領した。この進軍は3月26日から28日までのグロリエタの戦いの合衆国の反撃によって決定的な打撃を受け、止められた。
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