ゴローニン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 14:25 UTC 版)
事件当時、松前奉行支配吟味役であった重賢は、1813年5月に高田屋嘉兵衛がリコルドとともにカムチャツカから国後島に帰還すると、同役の柑本兵五郎とともに捕虜のシモーノフとアレキセイを連れて国後島に向かい、7月11日に到着。高田屋嘉兵衛に事情を聞いた後、リコルドにゴローニン解放の条件として釈明書を提出することを要求した。その後、リコルドが釈明書を入手して箱館に来航した際に日本側代表として対応し、9月26日にゴローニンを引渡し事件解決に導いた。この褒美として同年12月12日に金2枚を賜っている。 ゴローニンは離日する際、日本側に国境画定に関し翌年択捉島で交渉したい旨の文書を渡していた。これを受けて幕府は、択捉島までを日本領、シモシリ島(新知島)までをロシア領として、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居を建てないとする案を立て、1814年春、重賢を択捉島に送った。しかし、重賢が6月8日に到着した時には、ロシア船は去った後であった。このため国境画定は幕末まで持ち越されることとなった。
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